〇〇してみた😊: 『虹の橋』を自分で訳してみた🌈③思い描くそれぞれの『虹の橋』😌

〇〇してみた

本記事は 〇〇してみた😊:『虹の橋』を自分で訳してみた②辞書片手に翻訳チャレンジ の続きです。
こちらをお読みになる前に、①再読のきっかけはあのコの悲報 から順に読んでいただけると、よりスムーズに読めると思います。こちらからどうぞ。

最後の一文

『虹の橋』を改めて読むまで、詩のラストが「一緒に渡る」となることを知らなかった。
いや、「覚えていなかった」が正しいかもしれない😓
最後の一文はこの詩の中で最も読者の心を打つものではないだろうか。
それなのに当時の私にはなぜその一文が響かなかったのか。

それはおそらく、当時の私は最後の一文を認めたくなかったからだ・・・と思う。
「・・・と思う」なんて、非常にあいまいな答えなのだが💦
性格上、この答えでおおむね当たっていると思う。

先に記したとおり、当時の私は旅立つ愛猫たちに「すぐにでも生まれ変わって私の元へ」と強く願っていた。
そのため、最後の一文を

私が旅立つまで愛猫たちに会えないってこと?
そんな先まで離れ離れになるなんてイヤだ
ツラすぎる

そう解釈したのだろう。
そして私は愛猫たちの旅立ち以降、『虹の橋』を読むことを避け、最後の一文を記憶から消してしまった。

時の流れがもたらした変化

今回、かつての職場で可愛がっていた犬の悲報をきっかけに再読することにしたが、結果的にこの機会で良かったと思っている。
もちろん、あのコ🐶の旅立ちはとても悲しく、寂しい気持ちでいっぱいだ。
だがあのコの悲報を聞いて『虹の橋』の詩を思い出したということは、あのコが最後に贈ってくれた『機会』だと私は受け取った。
「今のあなたならこの詩と向き合えるはずだ」と。

いつの頃からだろう?
私の中で愛猫たちに対する『生まれ変わりの願望』が変化していた。
「生まれ変わっても」という気持ちが全くなくなったわけではない。
もちろん、私の元へ帰ってきてくれるなら嬉しいに決まっている。
でも愛猫たちに思いを馳せるたびに願うのは愛猫たちの幸せだった。

生まれ変わってもまた私のコになりたいと思ってくれるだろうか?
私の他にもあのコたちを幸せにしてあげられる人がいるかもしれない

だとしたらその人を選んでくれてもかまわない
再び命を授かるとしたら
次は天寿を全うできる道を、人を選んでほしい

それが『私』であれば最高に幸せなんだけどね

今思うと、そう考えるようになってから本物の虹を見る機会が増えた気がする。

本物の虹を見るたびに、そこに『いる』愛猫たちを思う。
今、私の生きている『この世界』では、もうその姿を見ることも触れることもできないけれど、愛猫たちはきっとそこに『いる』。

私がそこへ逝く日を待っていてくれてもいい。
私を待たずに生まれ変わってくれてもかまわない。
私以外の人を飼い主として選んでくれてもかまわない。
次の猫生を生きる愛猫たちが幸せであれば、私はそれで充分だ。

詩に向き合って得た気づき

詩の最後の一文は私の考えとは確かに違う。
そこで「違う!」と即否定するのではなく、「私とは違うけど、思いは人それぞれだから」と受け入れることができた。
おそらく時の流れによって心が穏やかになったからだろう。
静心で読んだことで、客観的な視点で詩に向き合えることができたのだ。
大切なペットを失ったその瞬間には到底受け入れることができなかった一文も、映画やドラマを観るような感覚で読むことができた。
執着心の強い私がここまで穏やかになっていることに気づき、自分でも驚いた😮

映画やドラマを観るような感覚って・・・何😅⁉
ラストシーンがしっくりこなくて、自分なりのラストを想像した経験が誰しも一度はあるのではないだろうか。
そう、こんなふうに

あのドラマのラストはこうであってほしかったなぁ・・・

本詩はあくまで、作者エドナ・クライン=リーキーさんが自身の思いを綴ったものだ。
それは彼女が思い描いたラストシーンであって、万人に「そうであれ」と言っているわけではない。

詩のラストが自分の思うものでないのであれば、思うものに変えればいい。
もちろん、原文を勝手に変えてはいけない。
それを踏まえた上で、『自分の中だけ』でアレンジを加えればいい。
勝手にアレンジしたものを『虹の橋』として公表はしない。(たぶん、しちゃダメだと思う😓
「私はこんなラストがいい」と思って、自分だけの心の糧にすればいい。

それに気づいたとき、「私は私の思うとおりのラストでいいんだ」と自分を肯定することができた。

気づくまでにだいぶ時間がかかってしまったが💦
詩に向き合えたことで、私はペットロスからの卒業にまた一歩近づいたのかもしれない。

そういえば・・・
他の飼い主さんたちは、最後の一文をどうとらえたのだろう🤔

それぞれの思い描く『虹の橋』

この詩の最後の一文は、飼い主の思いによってさまざまな文に変わるだろう。

「共に橋を渡る」と綴った作者のエドナ・クライン=リーキーさんは、虹の橋のたもとで再会できることを心の糧に、悲しみの中に希望を見出したのかもしれない。

一方で、かつての私のように「生まれ変わり」を願う飼い主もいるかもしれない。
そうなると最後の一文は「虹の橋を渡って私の元へ」となり、詩のテイストはがらりと変わるのだろう。
それもまた素敵だと私は思う。

私はというと・・・
最後の一文をどう綴るかは考えず、虹の橋に住む愛猫たちに選択を託すことにした。
つまり、私の『虹の橋』の詩は未完成なのだ。
いつ完成するのか、どのようなラストシーンなのかを想像する楽しみを愛猫たちにもらった気がする。

こんなラストはどうだろう?
こういう感じも良くない?
まさか・・・こんな展開だったりして⁉

そうやって私はこれからも前を向いて歩いて行こうと思う。
これが私の思い描く『虹の橋』だから。

詩のラストを自分の願う言葉に変えて、生きていく力にしていく。

そうすることでペットロスが緩和され、一歩ずつでも前へ進めるのであれば、
愛しいペットに思いを馳せて、笑顔で空を見上げることができるようになるのであれば、

それでいいと私は思う。

この詩を読んだ人たちの胸に、それぞれの描く『虹の橋』が存在する。
思い思いの『虹の橋』の存在が愛しいペットとの絆を確固たるものにする。
ペットロスを乗り越えるきっかけを与えるこの詩の素晴らしさは、今後も絶えず広がっていくだろう。

いつか・・・
作者エドナ・クライン=リーキー氏とその愛犬、メイジャーの絆に感謝の意を伝えることができたらいいなぁ😌(勝手に住所を調べて手紙を送るわけにもいかないものね💦)

『素敵な詩をありがとう』
Thank you for writing such a wonderful poem.

〇〇してみた😊 の最新記事はまだ準備中です。
もうしばらくお待ちください😌

コメント

タイトルとURLをコピーしました